朧の月亮

雑多な投稿・思ったことを気の向くままに

道徳は暗記科目である

※ この文章はジョークの要素を含み、道徳教育の意義を否定するもの、あるいは非倫理的な行動を推奨するものではありません。

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道徳は暗記教科である。よく倫理観の欠如した人物はそう言って茶化すが、もしかするとこれは本質をついているかもしれない。

 

皆さんの中にも、幼い頃に親などから「人のことを考えて行動しなさい」と言われたことがある人もいるのではないだろうか。この「人のことを考え」ることに、私は疑問を呈しているのである。そもそも道徳とは、他人に不快な気持ちを与えないためのものだ。これを達成するためには、ありとあらゆる場面で他者に配慮した(ように見える)行動が必要となる。そんなとき、毎回相手が思うことを想定していては間に合わない。多くの場合、いつも決まったやり方で行動した方がうまくいくだろう。たとえば、人にぶつかったら脊髄反射で謝るのがよい。

 

最近、文章を書くAIが話題になっている。このAIが明らかにしたことは、人間は意外と経験に頼って行動しているということだ。これまで考えられてきたように、脳内にしっかりとした論理があるのではなく、経験から妥当と思われる行動を見つけ出しているにすぎないというのだ。これは人間にも当てはめることができるのではないかと思う。つまり相手の立場に立って物事を考えるというよりも、親などから教えられたことや慣習をもって、他人を気遣ったものとしている場面が多いのではないか。

 

ここで子供を躾ける時の親の文句を改めて考えてみよう。親は確かに「周りの人のことを考えなさい」「自分が同じことをされたらどう思う?」などと言うかもしれない。しかしこの時、個別に「横入りをしてはいけない」とか「人のものを壊してはいけない」とか言うことを教えた上で「他人の立場で考えなさい」と付け加えているのではないだろうか。

 

勿論、いま述べたような決まったやり方を固定してしまうことには例外があり、事態が単純でない場合は実際に考える必要がある。たとえばやむを得ない理由で不正をしている友人を見かけた時、嘘は良くないから友人を罰するべきか?それとも友人との関係を保つ為に見なかったことにすべきか?それはその友人がやっている不正が他者に与える影響を考えたうえで、それでも良くないなら罰し、影響が軽微なら許すとか、自分の判断に従って振る舞う必要がある。

 

これらの事例からわかるように道徳やマナーというのは、確かに自分で考えるべき場面もあるかもしれないが多くの場面では暗記すなわち経験に頼っており、道徳を暗記教科と呼んでも差し支えないのではないだろうか。そして、暗記教科だからこそ、どんな人も斉しく最低限の道徳を身につけ、人々がより軋轢なく生活し、互いに気持ちよく生きられる社会になると良いと思う。