朧の月亮

雑多な投稿・思ったことを気の向くままに

カネはあればあるほど幸せである

「カネがなくても幸せ」と言っている人がいる。何に幸せを感じるかは人それぞれだし、確かにカネがなくても幸せな人はいるかもしれない。しかし、そのような人はほんの一握りであるのではなかろうか。

 

以降で述べることは至極当然のことであるから,簡潔にまとめる.

 

基本的に私たちはモノを手に入れるときや,人に何かをしてもらうときなど,自分一人でできないことをしたいときにカネが必要なので,カネはあればあるほど良い.例外として,自給自足の暮らしを送っている人や,頻繁に無償で何かを手伝ってくれる人が近くにいる場合があるのも,よく言われる話だ.

 

では,手伝ってくれる人もなく,持っているカネも決して多くないのに幸せそうな人もいるが,そのような人はなぜ幸せなのだろうか?

 

私が思うに、それは可処分所得の問題である。他人と比べて持っているカネの量が少ないことは問題ではなく、なんに使うのかが問題なのだ.生存できる最低ラインの消費行動に加えて,娯楽費や交際費,その他QOLの向上のために自ら用途を選択して使える程度のカネを持っているから幸せなのだ(うまいこと節約して遊びにカネを使うのが,潤沢にカネがあるのとはまた違って楽しいという人もいる)。逆に、カネを人と比べてたくさん持っているにも関わらず生活に満足していない人もいるが,このような人は自分より持っている人への羨望から不満を抱えているか,その使い所を間違えてカネがQOLの向上に寄与していなように思う。

 

つまり,一部の例外を除けば、我々にとってカネはあればあるだけ―少なくとも可処分所得が存在するくらいは―幸せになれるのである。

 

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追伸

「限界効用逓減の法則」というものがあり,ある程度金額が膨大になると満足度が頭打ちになることがありますが,ここでは「金がなくても幸せ」への反論であり膨大な金額には言及していないため無視できるものとします。

「ぼくらの七日間戦争」を斜に構えて再読した話

ああ、俺は諦念に塗れた「おとな」側になってしまったのだな。

 

小学生以来の「ぼくらの七日間戦争」を読み終えて、そう思った。

 

もちろん、今の生き方だって案外悪くないと思っている。諦念は抱いていても、つまらない「おとな」になってしまったわけではないと思いたい。しかし、頁を捲るたび、一文一文に対し「これは所与性あってのことだ」「結局あれだけ反抗しても親に頼っているのだ」といった冷笑を投げかけそうになった。

 

思えば私の小学校高学年〜高校1年生くらいの価値観の根底にあったのは、この本だったのかもしれない。高校入学直後に学生団体に入ったのも、この本に出てくる少年達と団体のメンバーを重ね合わせたからなのではなかったか。少年達は学校から離れて自分たちで物事を企画し、それに賛同する浮浪者の老人やメディア関係者の力も借りながら道を切り開いていった。(私が入った当初の)学生団体のメンバーも同様に自分たちで物事を企画していたし、賛同する慈善団体とフリーのカメラマンがいた。これは参加するしかない。そう本能的に思って参加したのだった。

 

しかし、決定的な違いがいくつもあった。また当時の私が気づいていなかった、所与性というものも確かにそこにあった。しょせんガキが一人では何もできない。みんな与えられた環境の中で何かを成し遂げている。そんなことを悟ってしまった。そして今、私は当時の熱を失いかけている。冷笑主義者になりたいわけではないが、けっきょく少年達も私も、一人では何もできないほどに無力だったのだ。

 

そして、すべてが弱々しい模倣の日々だった。

 

この本で少年たちは、厳しい校則を嫌ってもいた。中学生の時の私もそうで、この本の弱々しい模倣として、生徒総会で校則に挑戦した。私の中学は生徒会や生徒の権力が強く、校則の改定などが可能だった。しかし、それはあくまでルール上の話であって、実際には生徒の権力は教師には劣っていた。「雷神」と呼ばれていた教師が生徒会の権力を引き上げたために生徒には権力があるように見えたが、雷神がいなければ生徒は結局、何もできなかっただろう。雷神が去った後の生徒総会で、私の校則に対する反駁は黙殺された。かつての白熱した生徒総会は雷神が引き上げた生徒の権力を所与のものとしているに過ぎなかったのだ。また少年達は教師による暴力に苦しんでいたが、私はそうではなかったし、境遇が同じだとして共感していた少年達は、本当は私とは違う世界にいたのかもしれない。

 

それに、この作品で教師が言う、「子供を牛馬のように躾けろ」という言葉は、程度の差こそあれ私の中学とも同じ状況にあることは事実だが、牛馬のようにとは使役することを意味せず、社会で通用するために厳しく訓練すること、またそのために性悪説に基づく校則の規定があったのだろうと今になっては思う。それでも中学生の私は少年達に深く共感しており、自分にはできない少年たちの思い切った反抗を痛快だと感じていた。そういう憧れを、この物語の模倣のような小説を自ら書くことで消化してさえいた。しかし、今思えば厳しい校則というのは無条件に良くないものではないし(勿論根拠を説明できないような身なりの規定などは無くすべきだとは思うが)、ルールの価値を理解したうえで従うことは大切だ。条文をなんとでも解釈できてしまうルールは大人が意図した通りに子供が運用するとは考えにくく、性悪説に基づいたルールは支持できる。意味があるかどうかわからない規則というのは、背いてみれば失敗からその価値というのはわかるはずだ。反抗期の少年たちが言ったようにルールというのは大人が、子供を都合よく従うロボットにしたくて作るものではないというのは今となっては理解できる。

 

学生団体はどうだったか。これも弱弱しい模倣に過ぎなかった。もちろん先輩の代は優れたリーダーシップや頭脳の持ち主が意見をぶつけ合って活気ある活動をしていたし、後輩の代も活躍している。それをInstagramで見かけるたびに、やり残したことが引っ掛かって、グダグダの運営をした罪悪感が蘇る。頭が熱くなって足元が揺らぐ感覚に襲われるのだ。少年たちはそれぞれ頭脳や腕っ節の強さ、親の職業に由来する特化した技能など尖ったスキルを持っており、絶妙なチームワークを有していた。いっぽう私たちはそこまで尖ってはいなかった。ただ、そこそこ賢くてそこそこ怠惰で愚かだったのである。また私の代で起きていたメンバー間の不和というのも、少年達にはなかったものである。少年たちは解放区と称した廃工場で夜を共に過ごし、屋上で星を見上げながら語り合っていた。語り合うからこそ、不和は起きなかったのだ。しかし私たちはどうか。特に、私は他のメンバーと関わろうとしなかった。だからミーティング中に企画の不備を感じた時、投げやりにそれを指摘するばかりで共感も示さなかったし、それがあるメンバーとの対立を深めることとなった。勿論意見がぶつかるのは当然のことだし、そういった議論からより良い企画は生まれる。しかし私は代替案を示すことをしなかったし、指摘された向こうも向こうで、私のことを方向性が一致しない人だとして嘆いているのを聞いた。

 

しかも私たちは、与えられたモノすら使いこなせず、ミーティング中にスポンサーの悪口を言うだけの生産性のない時間が生じたり、先代のコネを無視してスポンサーにろくに活動報告もせず、参加者が2人しか来ず企画も練られていないオンラインワークショップをやったくらいだ。今年度はオンラインの年だったね。そうミーティングで振り返るメンバーに、ミュートになっているマイク越しに吐き捨てた言葉は、「馬鹿野郎、怠惰の年だろうが?」。少年達だって与えられた環境を使って反抗し、それが終わったらまた親元でぬくぬく暮らしているなどと叩きたくはなるが、与えられたものをフル活用していたという点で決定的に私たちとは違ったのだ。親の花火工場から花火を盗むくらいのことを、どうして私たちはしなかったのだろう。与えられたモノすら使いこなせなかった人間が「それって所与性ですよね」などと鼻高々に指摘しても価値はない。

 

一つの文章にまとめきれないほど感情をグチャグチャにされながら、何とか読書記録をまとめてみた。我々は確かに無力で愚かであったし、大人の「有難い言葉」はある程度正しい。結局反抗期の中学生みたいなノリで生き続けることはできない。

 

それでも、すべてを諦めたわけではない。自分一人でできる事には限界があるが、能力を最大限に発揮するためのマネジメント術や人を頼るためのコミュニケーションと人脈作りなどで、何かを成し遂げることはできるかもしれない。また何らかの理不尽と思えることに遭っても、校則の意義を理解するように、まずはできる限り理解しようと思う。

目標なく漂泊することの焦り―大人びた元同級生を見て―

ゴールデンウィークで札幌に帰省した際に、中学時代の元同級生と再会した。彼は同い年であるはずなのに、とても大人びていた。

私は高校に進学してからも、数回、彼と会っている。会うたびに、ただの懐かしさではない、焦りのような感情を抱くのだ。

 

高校時代に彼と会ったときは、駅前のマックで食事を奢ってもらった。当時彼はバイトをしており、学校の課題やプロジェクトに追われて余裕を失っていた私の目には、とても心強く映った。そんな彼は今働いている。市内の高校に在学中に資格を取得し、高校卒業と同時に就職したそうだ。彼が言うには、大学に行くのもよかったが、 や り た い こ と が 決 ま っ て い な い の に 大 学 に 行 く と 続 か な く な る のだという。そうするよりは、食いっぱぐれずに就職することを考えた結果の職だった。

ホームに列車が滑り込んでくる。やけに明るく照らされた車内には、20時だというのに人はまばらだ。立たなくとも、座って乗車できそうだ。1か月前まで当たり前だったはずの光景が異常に思えた。北海道の地方都市では、少子高齢化の影響もあってか人口が年々減少している。若年・壮年人口は札幌か、あるいは東京などの道外に流出する。それにしても、電車に乗っているのは中高年が多いように感じられた。なるほど、札幌で働くとなると職種を選り好みしていられないわけだ。そう感じた。

 

私はやりたいこと・研究したい分野が固まる前に受験生になり、都内の私立大学を第1志望として、無事そこに進学した。やりたいことが固まっておらず、モチベが続かなくなる危険性に蓋をしたまま。

私の通う大学の学生は、海外かぶれした話し方をするとか、留学に行くだけ行って帰国後には「日本語忘れたわ」とか「価値観変わったわ」とか薄っぺらいことを言いがちだとか、一部の卑屈な民から揶揄されることがある。

私もそういう人間の一員になる危険性は十分にあるのだ。大学に居ては気づくことのできなかった境遇で、彼は自立した生活を送っている。私は彼を見習って、地に足をつけて生きていかねばならない。大学で学ぶならば、目標を見つけなければならないのだと、気が引き締められる思いがした。

 

それから数か月後、私はモチベを見つけた。それはサークルでの活動だ。そこでは大学で学んだ知識をそのまま応用して成果物を作成することが求められる。また高校の時に失敗した、計画的に物事を進めることや組織で仕事を分担することなども求められる。ここでの活動を成功させるためにも、大学での学びというものに真剣に向き合わねばならない。

道徳は暗記科目である

※ この文章はジョークの要素を含み、道徳教育の意義を否定するもの、あるいは非倫理的な行動を推奨するものではありません。

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道徳は暗記教科である。よく倫理観の欠如した人物はそう言って茶化すが、もしかするとこれは本質をついているかもしれない。

 

皆さんの中にも、幼い頃に親などから「人のことを考えて行動しなさい」と言われたことがある人もいるのではないだろうか。この「人のことを考え」ることに、私は疑問を呈しているのである。そもそも道徳とは、他人に不快な気持ちを与えないためのものだ。これを達成するためには、ありとあらゆる場面で他者に配慮した(ように見える)行動が必要となる。そんなとき、毎回相手が思うことを想定していては間に合わない。多くの場合、いつも決まったやり方で行動した方がうまくいくだろう。たとえば、人にぶつかったら脊髄反射で謝るのがよい。

 

最近、文章を書くAIが話題になっている。このAIが明らかにしたことは、人間は意外と経験に頼って行動しているということだ。これまで考えられてきたように、脳内にしっかりとした論理があるのではなく、経験から妥当と思われる行動を見つけ出しているにすぎないというのだ。これは人間にも当てはめることができるのではないかと思う。つまり相手の立場に立って物事を考えるというよりも、親などから教えられたことや慣習をもって、他人を気遣ったものとしている場面が多いのではないか。

 

ここで子供を躾ける時の親の文句を改めて考えてみよう。親は確かに「周りの人のことを考えなさい」「自分が同じことをされたらどう思う?」などと言うかもしれない。しかしこの時、個別に「横入りをしてはいけない」とか「人のものを壊してはいけない」とか言うことを教えた上で「他人の立場で考えなさい」と付け加えているのではないだろうか。

 

勿論、いま述べたような決まったやり方を固定してしまうことには例外があり、事態が単純でない場合は実際に考える必要がある。たとえばやむを得ない理由で不正をしている友人を見かけた時、嘘は良くないから友人を罰するべきか?それとも友人との関係を保つ為に見なかったことにすべきか?それはその友人がやっている不正が他者に与える影響を考えたうえで、それでも良くないなら罰し、影響が軽微なら許すとか、自分の判断に従って振る舞う必要がある。

 

これらの事例からわかるように道徳やマナーというのは、確かに自分で考えるべき場面もあるかもしれないが多くの場面では暗記すなわち経験に頼っており、道徳を暗記教科と呼んでも差し支えないのではないだろうか。そして、暗記教科だからこそ、どんな人も斉しく最低限の道徳を身につけ、人々がより軋轢なく生活し、互いに気持ちよく生きられる社会になると良いと思う。

○○禁止生活楽しすぎワロタ

よくある主張

よく人間関係の文脈で、「減点方式ではなく加点方式がいいよね」といった主張を目にしますね。「〜をする奴はダサい」「〜なファッションは…」こういうダメとされていることを全部避け続けたところでキリがないし、減点を避けたからといってあなたの魅力は増えないですよね?という主張です。

 

本 当 に そ う か ? 私は逆張りします。いろんなことを避けたり禁止したりしても、楽しいことはできるはずだ。カントだって、真の自由とは己の格率に従うことだとして、意志の自律を説いているからね。

 

 

今日のトピック

前置きはこの辺にして、今日の主題は「○○禁止生活楽しすぎワロタ」です。

 

 

これを始めるに至った経緯

最近、本当に生活がつまらない。大学生活にも慣れてきたが、毎朝起きるたびに、

 

「 俺 は 何 を し て い る ん だ ? 」

 

という虚無感が襲います。それと同時に、大学生活を楽しく充実したものにしなければならないという焦りさえ感じるのです。

大学生活を充実させる鍵は、 遊 ぶ こ と です。もちろん勉強も大事だけどね、経験ってこう、唯一お金で買えない物だと思うんですよね(いいえ、勉強の方が大事です。遊んでも課外活動に励んでも、成果が出なければ、後に何も残らなければ、意味がないでしょう?教養ってこう、唯一お金で買えない物だと思うんですよね。経験を金で買っても、学びが残らなければそれはサンクコストとなるでしょう)

 

 

それで、何をしたの❓

そんなわけで、私はTwitterで1週間禁止として自分に課すものを募集しました。集まった回答は以下のとおりです。

−晩ご飯の外食

−晩ご飯の自炊

−肉

−コンビニ

−主食

−カフェイン飲料

−風呂

−鏡を見る

 

 

おい!!!!

晩ご飯の外食と晩ご飯の自炊って、明らかに矛盾してますよね?風呂入らないのも結構きつい。でもやります。一生虚無感を抱えて生きるよりはマシだ。

 

 

アウフヘーベン

まず、晩ご飯の外食と晩ご飯の自炊という相反する命題をどうクリアするかです。選択肢は2つ、晩御飯を食べないか、食材を調理せずに食べるかです。このようにして相反する命題を保ったまま上位の命題を作る、これがほんとのアウフヘーベンです!「カツとカレーをアウフヘーベンしてカツカレー」とか言った高校の倫理の先生みてるかー?笑笑笑笑笑

…あー、カツカレー食いてえ

 

 

食事制限

食事に関しての禁止事項は、自炊・外食・コンビニ・肉・主食です。昼食をコンビニで済ませることもできないし、肉と主食がないと栄養が偏ってオワりそうです。これをどう解消しようか?

 

 

野菜は美味しいから食べるの!!!!

「肉でなければ野菜」この命題は高校1年生で習いますね。全体集合Uを食物とすれば 肉⊂U であり、肉̅  =  野菜 です。つまり野菜を食べれば肉禁止はクリアです。言っておきますが、野菜は美味しいから食べるのであって、義務的に食べているわけではないですからね。

それから、コンビニを利用しないことも簡単です。生鮮食品はスーパーで購入することができます。主食に関しては糖分に富む果物を食べれば良い(とうぜん果物は肉ではありません)し、肉の代用として大豆はタンパク質に富む植物です。豆は穀類であって野菜ではないって?豆は肉ではなく、肉でなければ野菜です。穀類は野菜の部分集合であるから何ら問題ではない。

これで栄養の偏り問題は解消されたし、サプリは肉ではないので最悪の場合サプリで栄養を補えば良いのです。

肉でなければ野菜である

 

 

主食

先ほど大豆由来タンパク質を補給できると言ったが、主食についてWikipediaで調べたところ大豆も主食なので、どうやらタンパク質を摂取するには大豆以外で考えねばならないようだ。まあ、冷凍ブロッコリーを買い込んでおけば大丈夫でしょう。なお、米や小麦、トウモロコシ以外にバナナなども主食に入るため、エネルギーの補給にはカボチャが利用可能であるとの結論を導きました。

 

 

カフェイン飲料

コーヒー・エナジードリンク・緑茶・コーラなどは禁止物品に該当します。飲料ではないカフェインはセーフということでしょうか。コーヒーを粉のまま食べれば良いのですから簡単です。

非飲料カフェイン

 

 

風呂

私は4月に引っ越したばかりの時は深夜まで荷解きに追われて風呂に入れないことがありましたが、3日風呂に入らないと最悪なことになることを経験しました。一度シャンプーしても、まだ頭がギトギトしてるんですよ。経験ってこう、唯一お金で買えない物だと思うんですよね。

不潔な頭髪の男性

何をもって風呂と定義しているのかは分かりませんが、ウェットシートで体を拭き、洗面台で頭を洗えば問題ないでしょう。(今回は季節柄、衛生的に問題があるのでシャワーは可としました。これを裁量ある規則の運用といいます)

 

 

鏡を見る

洗面台の鏡を隠し、身だしなみを整える時はスマホのインカメを使おう。

 

 

実際にやってみた!

以下に日記形式で縛り生活の様子をお伝えします。

 

【1日目】

朝食 絶起の為なし

昼食 枝豆・茄子の味噌汁・冷凍カボチャ・きゅうり

健康的な食事

夕食 不明

備考 髪を切る・カフェイン錠剤の購入・枝豆は大豆由来だったら主食かもしれないが、そうではないことを祈る

カフェイン錠剤を購入

所感 1日目は元気、楽しい

 

【2日目】

朝食 マックのサラダ・オレンジジュース

昼食 野菜炒め・等張液で煮たカボチャ

等張液で煮たカボチャ

野菜炒め

夕食 スーパーの総菜(かき揚げ・切干大根)

備考 朝食はフレーム外でソーセージエッグマフィンを食べている。でもダイエットと同じで1度禁忌を冒したからと言って中止するべきではない。

Twitterに投稿した写真

わきに避けたSEM

所感 2日目から食事が楽しくないので食べる量が減り、他のことをしたくなる。これは危険である。欲には抗えないので朝だけ肉を食べることにした。これが裁量ある規則の運用です。この縛り生活で、粗末な食事をすることを通して貧しかった頃を忘れないことが出来そう・だから生活に一見不合理な規範を設けている宗教って無条件にバカバカしいと唾棄できないかもな、などと思った。

 

【3日目】

朝食 マックのサラダ・オレンジジュース

昼食 誤って水で煮たカボチャ

夕食 チーズ牛めし特盛

夜食 ゼリー・串わらび餅

備考 ゼリーのゼラチンは肉由来かもしれないが、ほかに調理不要の食品は肉しかなかったので仕方ない、とツイートしている。やせ我慢で余裕がなくなると人は恣意的にルールを解釈し始める。誰がとは言わないが例の人たちの持っている論理の歪さ・矛盾はこれに由来するかもしれない。

恣意的な運用

所感 昼食のカボチャは煮崩れているし味も気持ち悪くて喉を通らなかった。夕食のチーズ牛丼特盛で腹が痛くなり、特有の臭みで気持ち悪くなった。私は肉食・主食・晩御飯の外食という3つの禁忌を同時に犯しているのです。ああ、父なる神よ、わたくしの罪をどうかお赦し下さい。

どうかお許しください

 

【4日目】

朝食 不明

昼食 不明

夕食 牛ステーキ2枚

私たちは肉がなければ生きていくことができません

備考 冒頭の私の証明は間違っていた。肉も野菜も、どちらも食物に属するのだから肉と野菜は同じである。

所感 このように肉と野菜を同一とみなすような誤謬が起きるほどに、脳に栄養が行ってないのでしょう、だれとは言いませんが。

 

【5日目】

朝食 不明

昼食 不明

夕食 不明

所感 肉を食べるようになって立ち眩みは改善された。この生活を通して、欲望の充足というのは命をつなぐためにあるのではなくて、人であることを保つためにあるのだと思うようになった。身体が不健康になれば食欲もわかず、だからといって食事を放棄すれば一層人間的な生活から遠ざかっていくのではないだろうか。

 

 

まとめ

食生活はバランスが大切であるということが身にしみてわかりました。また、誰がとは言いませんが、あいつら絶対裏では………誰か来たようだ。それではこの辺で。

 

刺激が足りない

大学生活が始まって半年が経過した.そんな今思うことといえば, 刺 激 が 足 り な い ということだ.

 

第一志望の大学に合格して,潤沢な仕送りで念願だった東京での一人暮らしを満喫している.…はずなのだが,な ぜ か 楽 し く な いのである.

 

英語で何かをして楽しむというのは,Enjoy oneself  ~ingという.何を楽しいと感じるかは自分次第だし,楽しみは自分で見出すものなんだよ!!そう,高校の英語教師が言っていた気がする.もっとも,これも思い出補正みたいなものかもしれないが.だとしたらなぜ,俺は楽しみを見出せないんだろうか?そもそも,楽しいと感じなきゃいけないものなんだろうか?

 

夏休みは2か月もある.この間にバイトやサークルなど,楽しむ機会はいくらでもあるはずだ.しかし,どれも 実 績 解 除 で し か な い 気がするのだ.サークルに参加した,授業を切った,過去問でテスト対策をした,1限寝ブッチした,そういう実績を解除したところで,それをSNSに投稿していいねを得ることで楽しいと思い込むしかできない気がするのだ.それは非常にまずいことである.興味のないことは学べないこと,楽しみを見出せないと鬱になることは高校時代の経験からも明らかであるが,それを知っているにもかかわらず楽しみを見出せない.

 

それはすべて,「 与 え ら れ て い る 」ものにすぎないからではないだろうか?先輩の作成した時間割を丸写しした履修登録,TAの人に答えを教えてもらってレポートを書く小学生向けのオーキャンみたいな学生実験,学生実験の班割りで自然に生じた過去問共有LINEグループ,そして親からの潤沢な仕送りで成り立っている大学生活…どれも自分で切り開いた道ではない.与えられたものにすぎないのだ.しいて言えば,共通テスト後2週間で数IIIを詰めて勝ち取った合格くらいが自分の力で得たものか.

 

そんなことを思ってもなお,他力本願になってしまう.自分で作り出す楽しさって一体なんだ?エグいほど面白い奴と友達になりさえすれば変わるんじゃないか?そう思ってしまう.事実,高校ではエグいほど面白い奴が友人の一人にいたのだ.その友人と卒業に際して,物理と数IIIの教科書とトレードでもらった山川の日本史と世界史を見るたびに,今とのギャップを感じる.

 

今も友達はいないわけじゃないが,みんな中途半端に真面目なだけで尖り散らかした奴はいない.面白い奴を友達にしなきゃいけないという焦りを感じているのだ.人生のピークが高校だったら,これからの大学生活は「高校時代は良かった」と懐古するだけで進歩のないものになってしまう.さらに将来においても,特に東京で就職するならば東京に人脈を作っておく必要がある.それには,よっ友程度の関係ではない,深い関係の友人が必要であり,俺をして深い関係になりたいと思わせるのは尖り散らかした奴だけだ.

 

というのも,高校で学生団体をやっていて思うのは,結局人脈ということだからだ.コネもカネも実力もない若造が何かを成し遂げることはYouTubeに今更参戦して銀の盾を獲ろうとするほど無謀なことだ.けっきょくあの団体が力を得ていたのは,初代の熱意に共感した大人たちとの人脈にほかならず,俺の代では,その人たちに頼らず何かをしようとするも,客が2人しか来ないワークショップくらいしかできなかったのだ.

 

ああ,このまま人脈ができなかったら,俺の将来は暗い.一生懐古するだけで進歩のない人間になってしまう.そういう焦りを感じている.

歩く時でさえ責任の所在は明確でなければならない

よくTwitterで、縦割りの仕事分担は融通が利かないからよくないとか、自分の仕事しかやらないからよくない、もっと協力すべきだとか、あるいは対照的に、縦割りにするのは自分のすべきこと、他人のすべきことが明確に区別されて仕事の漏れがなくなるのであり、協力がうまくいかず仕事の漏れが発生するのは縦割り自体に問題があるのではなく、割り当てられた人の問題だとか、そういった議論が交わされる。

 

まあ何であれ、私は「責任の所在を明確にすること」は大事であると思っている。それは縦割りに近い思考だが、必ずしも縦割りではない。複数人で仕事を運営する際には、縦割りをベースとして、適宜自分の分野以外の仕事も手伝うべきであり、その際は「この範囲まで手伝う」と明確にすれば、仕事の漏れがなく効率的に作業が進むと思っている。

 

逆に、責任の所在が明確でなかった場合には失敗が起きる。その失敗の経験を、私はいくつか持っている。

 

  • 学生団体での経験

私は学生団体でオンラインイベントの企画に参加したことがある。このとき、企画の趣旨やスケジュールなどの決めるべきことを議論して、するべき仕事を列挙するまではMTG[ミーティング]で行われたのだが、肝心の「その仕事をだれがやるか」が議論されていなかった。

その結果、コアメンバー以外のメンバーが指示待ちになり、応募フォーム作成などの細かな手順が完了しないままイベント当日を迎えようとしていた。

奇跡的に私は毎回の議事録を担当しており、イベント前日に議事録を見返して進捗を把握しようとしたときにフォームがないことに気づき、慌てて独断でフォームを作成した。それでもけっきょく当日は人が集まらず、決まったイベント日時を延期するという言語道断の行為をした。

 

  • 歩くことさえ責任が必要

先日、Twitterで会う約束をした人と札幌の観光スポットを廻った。

——どこ行きますか?

——時計台とかどうです?

——ああ、いいんじゃないですか?

着地点が視地平の向こうにありそうな会話をしながら、地下街を歩いていた。

「あれ、どこ行こうとしてます?」

スマホから目を離して視点を上げると、道の突き当りに来ていた。私たちはどちらも、ルート選択の主導権を握っていなかったのだ。互いに相手が何かを言うのを待って歩き続けた結果、何もない道の突き当りまで来てしまった。

 

チームワークを発揮すればできることは格段に増える、個人の能力の人数倍以上の成果を発揮できるとはよく言われるが、誰かが主導権を握らなければ(トップダウンという話に限らず、率先すると言い換えることもできる)得られる成果は個人の能力の人数倍未満になるだろう。「誰が」「何を」やるのか、言い換えれば、だれが率先して動くのかは、明確に決めなければならないのだ。